パレスチナ情勢を受けて緊急で執筆してみました。
①はこちら
【ジーナとの禅問答】
ジーナはお絵かきの前後に『変わるものと変わらないもの、どっちがいいか』という問いかけを風子にします。
風子はアンディと出会って変なこともあったけど色んな経験が出来たから変わるっていいことだ、と返答します。
戦いの中ジーナは究極の変化は死だ、死ぬのは嫌、変わるなんて嫌、変わらないでほしいと主張しますがアンディは生きる死ぬという最大の変化はいいもんだと肯定し、最大の変化である死はオレのものであり、生は風子のもの、だから風子には生きてもらうと返答する。
このシーンにアンデラの世界観が凝縮されていましたねぇ!
【ジーナ戦はアンデラにおける戸塚先生の思想を暗示していた?!】
結局ジーナとの戦闘の結末はアン風がジーナを殺して決着ということになりました。
変わりたくない!と主張したジーナが破れ、柔軟に変わろうとしたアン風が生き残る。この結末は私にとってすごい示唆的に感じるのです。
この世界には唯一普遍の絶対的なものがある!と信じ、その唯一普遍性を追究していくのが西洋哲学・神学です。まさにジーナの考えが西洋的です。一方変わることを柔軟に肯定していこうとするアン風の考えは東洋的です。そういった東洋思想の代表例に老子の道思想や仏教の無常観が挙げられます。
この戦いにおいて戸塚先生は西洋思想をジーナに、東洋思想をアン風に見立てて対立させたのではないかなと思います。西洋主義的思想の限界は東洋思想的な柔軟性で解決できるという示唆でもあると考えられます。
一元性と多元性の対立です。
…最盛期から衰えたといえ、現代社会でも世界を操作しているのは欧米です。世界の歴史や思想は欧米中心で語られがちで、欧米から見てよく分からんものはオリエンタルというブラックボックスにぶっこまれがちです。(これをサイードという学者は『オリエンタリズム』と名付け批判しました。)西洋的なものが絶対正しい!という独善性を非西洋領域にも強いたのが帝国主義です。
現代もこの影響を引きずっています。一つのものが絶対正しいのでそれを追究していくべきであるという西洋的な発想は確かに近代文明や近代科学の発展に寄与しましたが、しかし限界があるのです。
ユダヤ、キリスト、イスラムはそれぞれ自分が唯一絶対正しいし、その正しさを追究するべきだし、自分以外の人間も自分と同じであるべきだと心の奥底で信じているから、お互いにそれぞれの正しさを押し付けるから、現代にいたるまで殺し合い続ける。唯一普遍の全知全能な存在を前提として発した西洋的思考にはこういった側面もあります。
(イスラムは西洋に分類していいのか?と思われますのもごもっともです。オリエンタリズムの考察の対象も中東でした。私も迷いましたが今回変わるってよい派と変わりたくない派という対立構造で考える上でイスラムを便宜上西洋に分類しました。でも世界史ガチ勢ならイスラムを西洋に分類するのもわかるよな?だって古代ギリシャ哲学の後継者ってイスラム圏だもんねぇ。古代ギリシャ哲学を吸収した中世イスラム世界は中世西洋よりかなり科学が進んでいた。)
その強直さをジーナに仮託してそれをアン風が斃すというストーリーはアンデラにおける思想の在り方を示唆していると私は思います。アンデラで斃すべき神というのはやっぱりユダヤ、キリスト、イスラム的神をイメージしている。その唯一普遍の全知全能な存在を滅ぼそうというのは現実世界を硬直させている一元的正義中心主義の限界を突破しようというメッセージに思えて仕方がない。
【ユニオンも西洋的正義の限界を抱えていた】
ジーナ(とボイドさん)を踏み台にしてアン風は生き残り、『無事』ユニオンに迎えられます。多くの人は忘れていますが、最初はアン風を犠牲にしようとし、代わりにジーナとボイドを犠牲にしてユニオンが仲良しごっこしていたのはかなり歪(←この文字は『不正』義のジュイスが統治するユニオンを象徴しているよう。)でした。
ユニオンはアットホームな会社だね♪とか言ってる人がいましたが、個人的には私は…そうは思わない。
ジュイスの正義は地球の人々を守ることでした。一見唯一絶対正しい。しかしその正義に固執する一方で否定者についてはけっこう犠牲を出している。否定者だって地球の人々の一員だけどね。
ジュイスの正義観も西洋的な一義性が垣間見える。そういう側面を解消しないまま『正義』だけを押し付け続けたのがジュイスの西洋的限界だったのだろうと思います。だからアンダーという別の『宗派』が誕生してしまった。ここもユダヤ、キリスト、イスラム的。ジュイスが何回もループしてもジュイスがリーダーでは神を斃せなかった理由はココにあると個人的には思ってます。
そして変わることを柔軟に肯定する風子がループ先でジュイスのポジションに成り代わって否定者含めて救済しようとしている。ほら、そういうことだよ!
【じゃあ西洋思想はオワコンなのか?】
そんなことはない。西洋的なものにも当然その良さがある。東洋が西洋より正しい!とどっちが上でどっちが下かを決めつけたがるのはまさしく西洋的な考え方だ。
ただ、以下動画において苫米地氏は、不完全性定理という数学定理により、全知全能なものはこの世には存在しないことが証明されてしまったので、これからの宗教は不完全性定理以降の宗教ではなくはならない、と述べている。(11:30~14:10辺り)
だから私はユダヤ、キリスト、イスラム的な宗教は『神だってたまには間違うよね。教義だってたまには矛盾するよね』くらいのゆるさがあれば共存できると思うんだ。
最後は否定者たちが神になって一神教世界から多神教世界になるというのがアンデラ哲学勢(私以外にもいらっしゃる)の共通予想でございます。
もちろん多少哲学をかじってたくらいで自分の見解が唯一絶対正しいなんて思っちゃいない。知ってることだけ知ってるだけですべてを知ってるわけではない。
異論なんてあって当然。
結局一人ひとりアンデラを楽しめば、自分の思想に他人を巻き込まなければそれで平和だ。
こういう見方もできるからそういうのに興味がある方はさらに楽しめるよって思いを込めて執筆しました。
あとすぐ一つの正義ばっかり追究したがる自分に対する自戒を込めて。
私自身もすぐ理屈で考えがちで、そんな自分を『変え』たくて東洋思想に興味を持ったのです。そんな私がアンデラに興味を持つのは当然のことだったのでしょう。