誰か1人でも理解者がいれば輝ける。
アンデラという作品の魅力の一つは否定能力バトルである。今回はこの否定能力が発達障害のメタファー(隠喩)に見えるという話をしたい。
否定能力というものは一見有害だ。
「有害」な否定者は一般人から異端扱いされ、世界から否定される。一方で有害にみえるこの性質も視点を転換し解釈を変えれば価値のある能力になりうる。自分を知り、自分の性質をうまく伸ばす努力を怠らず、解釈を変えれば一見否定されるべき性質も肯定できるものに化ける、というのがアンディが風子に説いた内容であり、本作品のテーマの一つである。
この理屈は発達障害(ADHDやASD)の世界でもあてはまる。発達障害を持つ者は一般人社会で暮らす上ではさまざまな困難が待ち受けている。その性質が悪いほうに働くと犯罪に走ったり、社会から排斥されうる。(実際犯罪と発達障害との間の関連性はある程度指摘されている。)
一方で発達障害者には特定の分野では常人が考えられないほどの活躍を見せ偉大な業績を残す者も多い。というか歴史上天才と呼ばれる人物は大抵発達障害の傾向が見られる(ゴッホ、ピカソ、坂本龍馬、織田信長、エジソン、アインシュタイン辺りが有名)。
であるから子どもに発達障害の傾向が見られたら、現代療育では否定するのではなく一般人社会でやっていくためのコミュニケーション術を養うと同時に、その子が才能を発揮できる分野を見つけ、それを伸ばしていくという方針が採用されている。発達「障害」などと烙印を押されているが実は彼らは天才にもなりうる。
否定者と発達障害、相似性を感じないだろうか?否定能力は発達障害の隠喩にしか見えなくなってきた!
そも発達「障害」なんて病名は現代の一般人のものさしから生まれた造語に過ぎない。
昔と違い会社という組織に人がより集まって勤める今のスタイルが一般化してからトガッた人間が問題視されるようになり発達障害というワードがつくられたのだ。発達障害は現代のぽっと出な概念に過ぎない。
発達「障害」であると否定された諸君にエールを送りたい。所詮一般人は一般人の枠の中しか生きられない。大量生産された出来合いの「常識」やら「普通」という名前のものさしに満足して疑問を持たず一生が終わる。一方発達「障害」と否定された君たちは自分だけの世界観の創造に迫られるためハードモードかつ孤独だが、一般大衆の何倍も足掻いた先には自分だけしか見られない世界がある。
あなたが往くはけもの道。
いいね、最高だ!
(注:人としてのルールは守りましょう。自分の世界を築くために猛烈な努力もしましょう。それを怠った先に待っているのは不可視のような末路である。)
以上、お粗末様でした。