これは私の私的な聴講メモです。約十年ぶりに見直しました。
【パート1~2:釈迦は空も縁起も語ってない!】
・空と縁起という概念は竜樹(ナーガールジュナ)が仏教を説明する上で作ったもの。
・『釈迦は何も語っていないbyツォンカパ(チベット密教の大成者)』
唯識派はアートマンを前提とした教えだが釈迦はそんなものないと言っている。
では中観派が正しいのか?中観派は言葉(=論理)を重視する派閥だが言葉に固執しすぎている。論理の面では合致しているが仏教においては論理領域も非論理領域もカバーしていくので中観派だけでは無理がある。
・般若心経はボロボロに間違っている。中国を経る過程で道教の「無」思想その他当時の中国の倫理観(儒教における男尊女卑等)が入り込んでいる。
・女人禁制
現代仏教では女人禁制の場所などがあるが、本来の原始仏教では女性差別的意図はなかった。出家は死人から衣をはぎ取ってそれを自分の服にして乞食の生活をすることであり、それを古代インドで女性がやるのは治安悪すぎて無理。だから超初期では女性の出家は禁じた→祇園精舎という場所が出来て安心して修行できるようになってから女性の出家もOKした。
もともとは女性の安全を守るための出家禁止措置だった。それが曲解されて現代では女人禁制の場所や女性差別ができてしまった。
【パート3:自分というものを探してもない、これが空である。】
・自分が重要だと思っていることしか見えないことをスコトーマ(盲点)という。
・自分とは何かを定義してみよう。自分を細かく定義すればするほど自分から遠のいてしまう。それを竜樹は空と表現した。
例:点とは何か定義してみよう
点とはユークリッド幾何学において線分の端もしくは円の中心と定義した。
点というものはあるか⇒そりゃある。
しかし実在しない。だって円の中心に太さがあったらおかしい!
このように自分というものを探してもない、これが空である。
【パート4:パート3の続き。自我とは宇宙である。梵我一如。】
・縁起という概念の価値は認めるが釈迦が悟ったことではない。
・自分を定義すると別のことを語って遠く→宇宙全体へ広がる。つまり自我とは宇宙なのである。
・自我とは自分にとって重要なものを並び換える関数、重要度関数または評価関数である。
そこらにあるボールペンと母親を任意に並べると自我は母親を抽出する。宇宙全体の中から自分にとって重要なものしか見えないのが一般人。→ボールペンと母親の重要度の違いが分からないのが釈迦!
・釈迦になれ!というのは無理がある、だが釈迦に近づこうとするのが仏教の狙い。
・記憶で自分を定義する。
・ゴールに向かって重要度関数が変わる。それによって見えるものが変わる。⇒自我が変わる。
・重要なものしか見えないのがスコトーマ、これを極限的に解釈すると何も重要じゃない人は何も見えない人である。全部重要な人は全部見える。全部同じように重要。これが悟りの境地である。
・宇宙と自分は表裏一体。存在とは部分関数である。
自分とは宇宙の中からたった一人の自分を選び出す関数である。『犬』というのは宇宙の中からすべての犬を選び出す関数である。
例:自然数から奇数を抽出する関数について考える。⇒全体集団から奇数を抽出すると自動で偶数も抜き出される(奇数を抜いた残りが偶数)
つまり部分関数が定義できると同時に宇宙の残りも定義できる!自分が正確に定義できると宇宙が正確に定義できる=悟り、自分と宇宙がはっきり見えた。
【パート5:般若心経は根本的に間違っている!】
・口語で残せと釈迦は言ったのに文語で残してしまった件
釈迦は弟子たちに釈迦の語った内容を文献として残していいかと尋ねられたときに「いいけど口語で残してくれ、文語はダメだ!」と言った。釈迦はすべて人と対話する形で説法してきた。語り口調で残さないと誤解が生まれる。
なのにサンスクリット語(当時のインテリが使っていた文語)で残してしまった…\(^o^)/当時の口語に近いのはパーリ語(南インド、スリランカでパーリ語の経典がちょっと残ってる?)
サンスクリット語から漢語への翻訳が最悪。釈迦は宗教っぽいことを排除していたのに般若心経で呪文(ぎゃーていぎゃーてい~羯諦羯諦波羅羯諦)が出てきている…\(^o^)/
・般若心経の前振りもおかしい
般若心経冒頭は観自在菩薩が舎利子(シャーリプトラ君)に『お前、全然分かってねぇじゃん、教えてやるよ』と話をし始める形式。菩薩とは修行中の人を意味する。だから私たちって実は菩薩なの。一方シャーリプトラという人物は阿羅漢といって釈迦に教えてもらって悟った人たちの一人。
修行中の人間が悟った人間に説法するとかおかしいだろ!!
・現在残っている経典
般若心経は現在残っているのはサンスクリット語版と漢語版。サンスクリット語で残っている古いモノは8世紀のもの。漢語版は確実なものは7世紀のものが残っている。
では古さからいえば7世紀の漢語を採用したほうがよいのでは?という考えたもあるが、中国人が中国でつくったものだから偽経。
【パート6:色即是空、空即是色は間違い?!】
・宗教学の世界では偽経認定されてしまった般若心経。道教関係者が翻訳してしまったから道教や中国思想が入り混じってしまった。仏教を道教的に解釈してしまった。
・空とは有(色)と無の上位概念である。
・色即是空、空即是色は✖
犬は動物である、動物は犬である。という命題があるとしよう。犬は動物である、は合っているが動物は犬であるという部分は間違い。犬と動物は抽象度が違うでしょ。それと同じ。
・苫米地氏が定義しなおすとしたら
色即是無、無即色。空包摂色、空包摂無。
仏教は数学的に、分析哲学的に定義できるというのが俺の考え。
・神と空の違いについて
神とは完全な情報である、しかしすべてを包摂しているわけではない!
空は完全情報ではない。空は何よりも情報が無い状態!
例)犬と猫の上位概念は動物である。上に行くと情報量が減る。
一つの概念空間から任意の二つをとってきて任意の二つよりも必ず情報量が少ないモノが空である!
∴空は神ではない。
・西洋哲学における「矛盾」の定義について
任意の2つよりも明らかに情報量が多いものを「矛盾」と定義する。
猫がワン!と吠えたら矛盾。
・苫米地の考える宇宙観
上位は空で閉じて下位は矛盾で閉じるのがこの宇宙。
・一神教における神について
一神教における神とは全知全能の完全情報体である。残念ながら不完全性定理によってそんなものは存在しないと数学的に証明されてしまった。
『我は妬む神なり』←ほかに神がいるって認めてるじゃん!
これからの宗教は不完全性定理以降の宗教ではなくはならない。
【パート7:悟りとは体感である。】
悟りとは体感である。釈迦は自分あるいは宇宙のゲシュタルトをみたのである!