贋作師は斯く語りきα

非腐のSNS難民の心のリハビリ&漫画感想絵日記(勉強優先のため一時的に単行本派)。無断転載/無断使用/トレス/画像保存/自作発言/AI学習/等禁止。Reproducing all or any part of the contents is prohibited.Don't link.Preview only.

【絵2枚】夜桜二刃誕生祭2022③

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夜明けが眩しくて

※一年後の未来から見返して追記

粘着絵師の件で一番メンタルが追い詰められていた時期にこの記事を書いていました。文面がかなり思いつめた感じで鬱々として閲覧しづらいところがありますが、あえてそのままにしてあります。そういった背景がある旨ご了承ください。

 

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ふたば誕生祭最終日。

 

ふたばの好きなところ【普遍の慈愛】

こちらは①と②を踏まえた話なので①②を先に読んでほしい。

 

よく『ふたばは皆のお姉さん!家族思い!』という表現を耳にする。勿論間違いではない。しかしその言葉だけではふたばの愛を表現するには足りないと私は感じてしまう。ふたばの愛が包み込む範囲というのは家族だけに留まらないからだ。それは白骨島編に於けるアカイ戦で証明されている。敵すらもふたばの愛の対象である。攻撃ではなく受け入れることで制した。まさに②で述べた合気の精神を体現した。合気の根底にはすべてのものに対する慈愛の精神がある。

 

社会科で習ったと思うが、かつて墨子儒教がもてはやす家族や親しい者限定の愛情(仁愛)を「偏愛=偏った愛」と呼んで批判した。そしてすべての人に対する愛である兼愛を尊んだ。

家族愛は重要だし人間社会の基盤であることは認める。でもそれで完結すりゃ世界が回るわけではない。家族愛だけでは救えない。「自分に親しい者以外はどうでもよい」という自分のメンタルすらコントロールできない某メンタリスト的思考が蔓延るし、家族の枠にあぶれた人を救済できない。人には普遍的な愛も必要だ。そういったものを求めるから宗教が発達してきたわけで。それをキリスト者アガペーと呼びあるいは仏教では慈愛と呼んだりする。執筆者はキリスト教よりも仏教のほうが比較的知識があること、ふたばの愛はどちらかというと仏教的に感じられるので慈愛という言葉を使う(②を読めばこの表現を用いた意味が何となく分かると思う)。

 

ふたばの見せる愛は親しい人限定の愛ではなく一切衆生に対する俯瞰的な愛情ではないだろうか。家族だろうと敵だろうと隔てのない普遍的な愛なのだ。たまたま家族との触れあいが多いからそれをまるまる家族愛と捉えてしまうのかもしれない。しかしふたばは相手が家族だろうとなかろうと、ベースに慈愛がある。家族相手となると慈愛に家族愛もプラスされる。だからよりいっそう愛情深く感じられるのだ。

 

愛にも種類がある。家族愛だけではふたばの愛は表現しつくせない。普遍的な愛は極めて抽象的で言語化しづらいので往々にして抽象度の低い別の愛にすり替えられてしまう。この慈愛も最近では「バブみ」などと性的魅力の一種に変換されてしまうらしい。私自身、慈愛で接したつもりが「脈アリだ」などと捉えられた経験が何度もある。性「愛」、恋「愛」、「愛」玩、etc…もうウンザリだ。それでも私はこの偏愛至上主義の世界で埋もれる微粒子レベルの慈愛にアンテナを張って拾っていきたいと願っている。そのアンテナがふたばを受信してしまったのだ!

 

こういった愛に達するにはある程度の知性と実践が必要で、合気の教えがふたばの慈愛メンタルを培ったのだろうか。老成した精神は偏愛的な愛が良い意味で削げ落ちている。(ちなみに仏教では愛はだいたい悪いものとして捉えられている)この老成した心でロリィタを着るからふたばが「愛らしい」のだ。頭スカスカなロリィタちゃんには興味ない。外見も中身もどちらも私の好きな要素が詰まっている。

 

だから私はふたばを推すのです。

 

※こんなこと言ってるけど慈愛やアガペーなどの抽象度の高い概念はかなり難解で本当は慎重な議論を要するから(私だって全然だ)、そういうのに興味ない人たちは家族愛とかで満足できれば、それでいいと思います。

 

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見えない誰かの哄笑が脳内で谺する。「お前のご高説(笑)なぞどうだっていい。色気のないふたばなんかよりも『売れ筋』の四怨のバスト強調イラスト描け!嫌五の頬染めイラスト描け!俺たち(私たち)の愛あるいは愛を満足させろ!」と。…疲れてるね。

 

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影打ち。影がないのに影打ちとはこれ如何に。

 

 

以上、お粗末様でした。